Jarhead's White/映画『ジャーヘッド』

ジャーヘッド

アメリカ海兵隊、海兵隊員の蔑称。

この蔑称の最も有力な由来は、海兵隊員特有のクルー・カット(刈り上げた髪型、スポーツ刈りやGIカットとも)をジャーの蓋の部分に見立てたという説である。その他の説は、容器は頑丈で立派だが中身は空っぽ(馬鹿)という説や、第二次世界大戦時にメイソン魔法瓶が主力製品である魔法瓶(ジャー)の製造を一時休止して海兵隊用のヘルメットを製造したから、など様々な説が存在する。

ジャーヘッド - Wikipedia

僕が映画『ジャーヘッド』を思い出すとき一番最初に脳裏に浮かぶもの、それはあの時間が止まったかのような白い砂漠の風景だ。
なによりもまず最初に砂漠が、あの真っ白に漂白された無感覚な砂漠の色彩が瞼の裏に映る。そしてその後から、海兵隊員たちの姿や埃っぽい駐屯地の様子、そして小銃が加わっていく。

故郷アメリカから遠く離れ砂漠に送り込まれた海兵隊員たち、
増え続ける兵員、
拡大し続ける基地、
永遠に引き延ばされたかのような開戦を前に弛緩しきった午後の倦怠、
鍛えられた身体と精神を持て余し無為に過ぎていく時間、
駐屯地での終わらないバカ騒ぎ、
故郷アメリカの記憶、
そしてそれらすべてを取り巻く、あの真っ白な砂漠。

 

映画『ジャーヘッド』は、実際に湾岸戦争を経験した元兵士の書いた手記(『ジャーヘッド/アメリカ海兵隊員の告白』)を原作とするらしく、その画面からは様々なものを読み取ることができる。

『フルメタル・ジャケット』みたいな鬼教官によって肉体も精神も殺人マシーンに仕立てあげられ、戦争映画と勇ましいスピーチで鼓舞されて戦地へ送られた主人公スウォフォード。
しかし送り込まれた砂漠で待っていたのは永遠に続くかのような待機期間だし、いざ戦争が始まっても、彼はついに誰一人殺すことなく帰還して兵役を終えることになる。


一向に戦争が始まらないまま砂漠で立ち往生し規模だけは膨れ上がっていく駐屯地、勇ましいプロパガンダと現実との剥離。そしてなにより、遂に獲物を捕らえることのない狙撃銃の照準。

スウォフの戦争はどこか「カフカ的」とでも形容したくなるような様相だ。
これだけ取り上げても色々と示唆に富んだ寓意を読み取ることが出来るだろう。

他にもたとえば、映像によってあらかじめ先取りされた現実、現代戦における人間疎外とテクノロジーの圧倒的な力の前に立たされる人間の無力さ、アメリカの貧困、帰還兵の現実、メディアの欺瞞、その他諸々、この映画には実に様々な文脈が織り込まれていて、僕らはそれらを好きなように取り出すことができる。
だから、戦争を批判的に描いた映画として本作を読み込むことはもちろん可能だろう。


しかし僕がなんとなく感じるのは、本作は戦争を描くことにおいてなんの価値判断も行っていないのではないか、ということだ。
なるほど確かに、軍や戦争の愚かさはしっかりとフィルムに焼き付けられているのだが、しかしその戦争は「良いもの」や「悪いもの」である以前の水準──すなわち単なる現実として、"ただそこにある"というように見える。

 

もっと言えば、僕にとってこの作品は社会派の戦争映画である以前にちょっと変わった青春映画だった。

それは湾岸戦争版『スタンド・バイ・ミー』であり、悪ガキたちがちょっとした冒険をしたある夏の話であり、そしてなにより、あの白く凍り付いたモラトリアムに囚われてしまった人々の物語なのだ──一時的に、部分的に、あるいは永遠に 。

 

だから、この映画で描かれる砂漠──白く凍り付いたモラトリアム──の奇妙な色調に立ち戻ろう。

この映画の砂漠はあまり砂漠らしくない。
それは時に雪原にすら見えるほど真っ白で、奇妙に温度感と現実感を欠いていて、あまり暑そうに見えない。
砂漠という環境に付きまとう──僕は行ったことが無いので推測だが──身体的な不快さ、たとえば暑さと渇き、べたつく汗、身体に付きまとう砂埃、そういうものが画面からはあまり感じられない。

この砂漠は奇妙に抽象化されている。
ただ太陽光だけが降り注いでいて、すべてを白く染め上げている、そういう空虚で奇妙に現実感を欠いた「異界」。それがジャーヘッドたちが送り込まれた世界だ。

 

この奇妙に現実感を欠いた砂漠の描写について考えているとある推論が浮かぶ。
それは、この映像はすべて、帰還後のスウォフが脳裏に思い浮かべたものなのではないか、というものだ。
もっと言えば、これは彼の心的現実、内的風景そのものなのではないだろうか。

 

まるで死後の世界のようだ、と思う。

 

スウォフが送り込まれたあの砂漠には時間がない。
その風景はあらかじめ、もうすでに、終わってしまっているものだ。
すでに終わっているがゆえにもう二度と終わることがなく、もう終わることがないゆえに無限に反復される、そういう時間だ。
だからそこに足を踏み入れた彼らジャーヘッドたちは無時間的なあの白い砂漠に囚われ、決して逃れることはできないのだ。
その白は何度でも反復される。

 

あの白い砂漠が現実感を欠いているのは、人が過去を想起する際につきものである細かな感覚の忘却によるものである、とひとまずは言うことが出来る。
スウォフは砂漠が暑かったということは覚えている。しかしその暑さが具体的にどのような暑さであったのかはすでに忘れてしまっている。当たり前だ。人間が過去を完璧に記憶することはないのだから。

だが更に言えば、恐らくこの現実感の無さは、砂漠での日々を想起する帰還後のスウォフが陥っている現実感の喪失によるものでもあるのではないか。いやそれどころか、もしかしたらスウォフは軍に入ったその時から徐々に現実感を失っており、あの砂漠にいた頃にはすでに無感覚な状態になっていたのかも分からない。

これはあるポイントまでは、なにもスウォフに限った話ではない。僕らの生は常に現実そのものを捉え損ねるものだからだ。
ある出来事の渦中にいるとき、自分がどういう状況にあるのかを知っている者は誰一人存在しない。
すべてが終わってしまって初めて、人はそれが何であったのかを理解する機会を得るし、よしんば理解できたとしても、その理解されたなにかは決してもとの現実と等価ではない。
僕らはいつでも現実なるものから切り離されている。そういう意味において、スウォフの陥った現実感の喪失は何も特別なものではない。

しかしながら留意すべきは、スウォフの置かれた状況の特異性は決して一般的なものには解消できないも、という点だろう。
彼の陥った現実感の喪失は、あるポイントから先はスウォフ(や彼と共にいた兵士たち)に独特のもので、それは軍を、戦場を、湾岸戦争を経験していない僕らには共有できないものだ。
ある種の異様な経験をすること、つまり平凡な日常の生活(と僕らが信じているもの)と徹底的に断絶した記憶を持ってしまうこと。それにより、その状況から帰還した後の日常に上手く自分を接続できなくなってしまうこと。
このような形での現実の喪失は、ある種の外傷的な経験をした人々に固有の症状なのだから。

 

そう、ジャーヘッドたちはみな程度の差こそあれあの砂漠に囚われ続ける。
彼らは確かに帰還したが、完全に帰ってくることはできない。
彼らの心の幾らかはあの砂漠に永遠に留まり続ける。そのため彼らの抱える症状は決して完全に癒えることがない。

あの白い砂漠の風景、それは帰還兵たちがその脳裏に生涯抱え続けることになる彼ら固有の心象風景と等価ではないかと、そう思う。

 

スウォフらがアメリカへ帰還した後も、相変わらず画面の彩度は抑えられている。
もちろん同じ映画なのだからいきなり色調が変わるのもおかしな話だが、僕はあの砂漠の空虚さが、帰還した彼らの日常にまで浸透しているかのような印象を受けてしまうのだ。

「僕はいまも砂漠にいる」というスウォフの独白を想い起そう。
彼はアメリカの平穏な日常の背後に、あの白く凍り付いた砂漠を二重写しに透視してはいないだろうか。

 


アメリカにいる人々の現実はただひとつだ。
戦場を知らない人々にとってはそこにある平穏な日常生活こそがすべてであって、彼らはその唯一の現実のなかで働き、結婚し、子を作り、そして老いていく。


しかしジャーヘッドたちはそうではない。戦場という別の現実を知っているからだ。
砂漠でのあの倦怠と戦闘、これら強烈な経験を経ることによって、ジャーヘッド達の現実は壊れた。だから彼らは死ぬまで、多かれ少なかれあの白い砂漠に囚われ続け、そのことによって自らのうちに分裂を抱えることになる。
そうしてふたつの現実のあいだで、ある者はなんとか社会復帰を果たすかもしれないし、ある者は酒や薬に溺れるかもしれない。ある者は命を絶つかもしれないし、またある者は戦場へと戻っていくかもしれない。

けれど、その後の生活でどんな生き方選んだとしても、一度あの砂漠に足を踏み入れた者はみなジャーヘッドであり続けるのだ。


戦場に囚われてしまった二人の印象的な登場人物がいる。

一人はスウォフたちの指揮官であるサイクス三等曹長だ。彼は筋金入りの軍人で、恐らくこの映画の前にも幾多の戦場をくぐり抜けてきたことだろうし、これからもそうしていくことだろう。

劇中でサイクスがスウォフに語ったところによると、彼はその気になれば家族と共に平穏な暮らしを送ることができたのだという。それなのにサイクスは戦場に残り続けることを選んだ。

彼が開戦後、暗闇で燃える油田を前にして語る言葉は印象的だ。
「なぜなら、俺はこの仕事を愛しているからだ」
「こんな景色が他にどこで見られる?」

このセリフは、あの白い砂漠のさらに奥にあった真っ暗な異界のなかで語られる。そこはほとんど「地獄」と形容しても遜色のないような場所だが、この場面の映像は幻想的ですらある妖しさを湛えており、その映像美はサイクスの言葉に確かな説得力を与えている。

蠱惑的な美を湛えた戦場──それこそがサイクスが囚われた世界の風景なのだろう。

彼の言葉を聞いたスウォフの心中ははっきりしない。
戦場に惹かれるサイクスの"狂気"を目にして「引いて」いるようにも見えるし、その心情をどこか理解しているようにも見える。
これは思い付きだが、もし最後の場面での狙撃が空軍に邪魔されなかったら、スウォフもまた戦場に残り続けたのではないかと、なんとなくそういう想像も働く。


もう一人はスウォフの相棒であったトロイだ。
彼は軍に残り続けることを望んでいたが、犯罪歴を隠して入隊していたことが発覚し除隊されることになる。映画終盤での彼の姿は、サイクスとは対照的な形でジャーヘッド達の囚われた苛酷な運命を象徴的に示している。

トロイは映画の終わりで、帰国後に死亡(恐らく自殺)したことが明かされる。
帰国してから結構な月日が経っているのだろう、スウォフとファーガスは髪を伸ばしている。それに対し、トロイの髪型は海兵隊にいた頃のままであり、このことは何よりも雄弁に、彼が除隊後もジャーヘッドであり続けたこと/あり続けるしかなかったことを物語る。

除隊後も遂に海兵隊員であることから逃れられず棺に収まる彼の姿、それは他の帰還兵たちの囚われた状況を象徴しているかのようだ。除隊しようが髪を伸ばそうが、彼らはみなジャーヘッドであり続ける。

これは帰還兵の社会復帰という、アメリカで実際に起きている社会問題のことでもあるし、ある種の強烈な記憶を抱え込んだ人間がその後の生活とのあいだに断絶を抱えるという、そういう文学的な問題でもあるだろう。

 

帰還した兵士にとってはもしかしたら、戦場で過ごした時期が人生で最も輝かしい時代になってしまったかも分からない。海兵隊にいた頃はみな愛すべきタフガイであったジャーヘッドたちが、帰国後みなどこか冴えないように見える、このことは示唆的だ。

軍という組織の歯車として心身を画一化され、着る服も髪型も強制され、自由を制限され、娯楽を奪われ、何もない砂漠に送り込まれ命の危険に晒される、そういう状況にいた頃の彼らの方がどこか輝いて見える。
そんな「人間疎外」的な状況から解放され自由を手にした帰還後の方が彼らにとっては苛酷であるかも分からない。

これはなんというか「皮肉」なことだ。けれども僕は、だからこれが不幸なのだとか、間違っているだとか、そういう話がしたいのではない。
彼らは人生の貴重な時間を戦争に奪われ、永遠に癒えない傷を付けられ、そうして得られた報酬よりはるかに多くのものを失ったのだろうか?
確かにそれは一面の真実ではあるだろう。

しかしそのことを殊更に取り上げて戦争の不条理を告発することは、この映画に関してはどこかピントがずれているような気がするのだ。

 

若者たちはそれぞれの事情によってたまたま軍に入り、軍に在籍している期間にたまたま戦争が起きて戦地へ送られた。そうしてそれまでの生活から切り離され、砂漠で無為に過ごし、いざ開戦となっても誰一人撃たず、撃たれず、そして帰ってきた。

この映画はただそれだけの映画であって、世界にはそういう奇妙な青春もあるのだという端的な事実の存在に、僕は思い至るだけだ。
そう、そこにはただ生活があり、一時的に社会から切り離されたモラトリアムがあった。
従軍という、ある意味究極の社会的使命を果たしていた期間を「モラトリアム」と表現するのは自分で書いていてかなり奇妙なことだと自覚しているが、それでも僕にはこれより適切な表現が思い付かない。

 

そう、彼らジャーヘッドたちにとって兵役期間は「ある夏の冒険」だった。
死体を探しに行った悪ガキたちの冒険がそうであったように。
そこにはくだらないバカ騒ぎがあり、過去からも未来からも切り離されて浪費される時の流れがあり、ありふれた友情と憎悪、諍いと和解があり、子供じみた野望と憧れ、そして挫折があった。

僕はそのことについて何らかの価値判断を下したり、そこから何かを引き出して教訓にしたりする気がないし、そのような言葉も持たない。

 

だからこう言おう。

 

ジャーヘッドたちは"ただそのようにあった"。
それだけのことなのだと。


彼らはしょうもない戦争に加担して遠い異国の地に死と破壊を撒き散らした。
それは確かに一面の真実だ。
あるいは彼らは大人たちが引き起こした戦争の被害者である。
それもまた一面の真実だろう。

あるはまたこうも思う。仮に劇中の登場人物と知り合う機会があったとしても、僕は彼らとは友達になれないだろう。
なんといっても彼らは究極の男社会に適応したマチズモの結晶であって、軍にとって一番低コストな手駒であって、四六時中バカ騒ぎをして下品なジョークを飛ばし合っているろくでなしの"ジャーヘッド"どもなのだから。

しかし、彼らがあの砂漠にいたことがいかなる形で間違っていようが、彼らがどんなにしょうもないクソ野郎の集まりであろうが、
それでもなぜか、あの白い砂漠で陽炎のなかおぼろげに浮かぶジャーヘッドたち、その姿を僕はどこか愛しく思うのだ。