Jarhead's White/映画『ジャーヘッド』

ジャーヘッド

アメリカ海兵隊、海兵隊員の蔑称。

この蔑称の最も有力な由来は、海兵隊員特有のクルー・カット(刈り上げた髪型、スポーツ刈りやGIカットとも)をジャーの蓋の部分に見立てたという説である。その他の説は、容器は頑丈で立派だが中身は空っぽ(馬鹿)という説や、第二次世界大戦時にメイソン魔法瓶が主力製品である魔法瓶(ジャー)の製造を一時休止して海兵隊用のヘルメットを製造したから、など様々な説が存在する。

ジャーヘッド - Wikipedia

僕が映画『ジャーヘッド』を思い出すとき一番最初に脳裏に浮かぶもの、それはあの時間が止まったかのような白い砂漠の風景だ。
なによりもまず最初に砂漠が、あの真っ白に漂白された無感覚な砂漠の色彩が瞼の裏に映る。そしてその後から、海兵隊員たちの姿や埃っぽい駐屯地の様子、そして小銃が加わっていく。

故郷アメリカから遠く離れ砂漠に送り込まれた海兵隊員たち、
増え続ける兵員、
拡大し続ける基地、
永遠に引き延ばされたかのような開戦を前に弛緩しきった午後の倦怠、
鍛えられた身体と精神を持て余し無為に過ぎていく時間、
駐屯地での終わらないバカ騒ぎ、
故郷アメリカの記憶、
そしてそれらすべてを取り巻く、あの真っ白な砂漠。

 

映画『ジャーヘッド』は、実際に湾岸戦争を経験した元兵士の書いた手記(『ジャーヘッド/アメリカ海兵隊員の告白』)を原作とするらしく、その画面からは様々なものを読み取ることができる。

『フルメタル・ジャケット』みたいな鬼教官によって肉体も精神も殺人マシーンに仕立てあげられ、戦争映画と勇ましいスピーチで鼓舞されて戦地へ送られた主人公スウォフォード。
しかし送り込まれた砂漠で待っていたのは永遠に続くかのような待機期間だし、いざ戦争が始まっても、彼はついに誰一人殺すことなく帰還して兵役を終えることになる。


一向に戦争が始まらないまま砂漠で立ち往生し規模だけは膨れ上がっていく駐屯地、勇ましいプロパガンダと現実との剥離。そしてなにより、遂に獲物を捕らえることのない狙撃銃の照準。

スウォフの戦争はどこか「カフカ的」とでも形容したくなるような様相だ。
これだけ取り上げても色々と示唆に富んだ寓意を読み取ることが出来るだろう。

他にもたとえば、映像によってあらかじめ先取りされた現実、現代戦における人間疎外とテクノロジーの圧倒的な力の前に立たされる人間の無力さ、アメリカの貧困、帰還兵の現実、メディアの欺瞞、その他諸々、この映画には実に様々な文脈が織り込まれていて、僕らはそれらを好きなように取り出すことができる。
だから、戦争を批判的に描いた映画として本作を読み込むことはもちろん可能だろう。


しかし僕がなんとなく感じるのは、本作は戦争を描くことにおいてなんの価値判断も行っていないのではないか、ということだ。
なるほど確かに、軍や戦争の愚かさはしっかりとフィルムに焼き付けられているのだが、しかしその戦争は「良いもの」や「悪いもの」である以前の水準──すなわち単なる現実として、"ただそこにある"というように見える。

 

もっと言えば、僕にとってこの作品は社会派の戦争映画である以前にちょっと変わった青春映画だった。

それは湾岸戦争版『スタンド・バイ・ミー』であり、悪ガキたちがちょっとした冒険をしたある夏の話であり、そしてなにより、あの白く凍り付いたモラトリアムに囚われてしまった人々の物語なのだ──一時的に、部分的に、あるいは永遠に 。

 

だから、この映画で描かれる砂漠──白く凍り付いたモラトリアム──の奇妙な色調に立ち戻ろう。

この映画の砂漠はあまり砂漠らしくない。
それは時に雪原にすら見えるほど真っ白で、奇妙に温度感と現実感を欠いていて、あまり暑そうに見えない。
砂漠という環境に付きまとう──僕は行ったことが無いので推測だが──身体的な不快さ、たとえば暑さと渇き、べたつく汗、身体に付きまとう砂埃、そういうものが画面からはあまり感じられない。

この砂漠は奇妙に抽象化されている。
ただ太陽光だけが降り注いでいて、すべてを白く染め上げている、そういう空虚で奇妙に現実感を欠いた「異界」。それがジャーヘッドたちが送り込まれた世界だ。

 

この奇妙に現実感を欠いた砂漠の描写について考えているとある推論が浮かぶ。
それは、この映像はすべて、帰還後のスウォフが脳裏に思い浮かべたものなのではないか、というものだ。
もっと言えば、これは彼の心的現実、内的風景そのものなのではないだろうか。

 

まるで死後の世界のようだ、と思う。

 

スウォフが送り込まれたあの砂漠には時間がない。
その風景はあらかじめ、もうすでに、終わってしまっているものだ。
すでに終わっているがゆえにもう二度と終わることがなく、もう終わることがないゆえに無限に反復される、そういう時間だ。
だからそこに足を踏み入れた彼らジャーヘッドたちは無時間的なあの白い砂漠に囚われ、決して逃れることはできないのだ。
その白は何度でも反復される。

 

あの白い砂漠が現実感を欠いているのは、人が過去を想起する際につきものである細かな感覚の忘却によるものである、とひとまずは言うことが出来る。
スウォフは砂漠が暑かったということは覚えている。しかしその暑さが具体的にどのような暑さであったのかはすでに忘れてしまっている。当たり前だ。人間が過去を完璧に記憶することはないのだから。

だが更に言えば、恐らくこの現実感の無さは、砂漠での日々を想起する帰還後のスウォフが陥っている現実感の喪失によるものでもあるのではないか。いやそれどころか、もしかしたらスウォフは軍に入ったその時から徐々に現実感を失っており、あの砂漠にいた頃にはすでに無感覚な状態になっていたのかも分からない。

これはあるポイントまでは、なにもスウォフに限った話ではない。僕らの生は常に現実そのものを捉え損ねるものだからだ。
ある出来事の渦中にいるとき、自分がどういう状況にあるのかを知っている者は誰一人存在しない。
すべてが終わってしまって初めて、人はそれが何であったのかを理解する機会を得るし、よしんば理解できたとしても、その理解されたなにかは決してもとの現実と等価ではない。
僕らはいつでも現実なるものから切り離されている。そういう意味において、スウォフの陥った現実感の喪失は何も特別なものではない。

しかしながら留意すべきは、スウォフの置かれた状況の特異性は決して一般的なものには解消できないも、という点だろう。
彼の陥った現実感の喪失は、あるポイントから先はスウォフ(や彼と共にいた兵士たち)に独特のもので、それは軍を、戦場を、湾岸戦争を経験していない僕らには共有できないものだ。
ある種の異様な経験をすること、つまり平凡な日常の生活(と僕らが信じているもの)と徹底的に断絶した記憶を持ってしまうこと。それにより、その状況から帰還した後の日常に上手く自分を接続できなくなってしまうこと。
このような形での現実の喪失は、ある種の外傷的な経験をした人々に固有の症状なのだから。

 

そう、ジャーヘッドたちはみな程度の差こそあれあの砂漠に囚われ続ける。
彼らは確かに帰還したが、完全に帰ってくることはできない。
彼らの心の幾らかはあの砂漠に永遠に留まり続ける。そのため彼らの抱える症状は決して完全に癒えることがない。

あの白い砂漠の風景、それは帰還兵たちがその脳裏に生涯抱え続けることになる彼ら固有の心象風景と等価ではないかと、そう思う。

 

スウォフらがアメリカへ帰還した後も、相変わらず画面の彩度は抑えられている。
もちろん同じ映画なのだからいきなり色調が変わるのもおかしな話だが、僕はあの砂漠の空虚さが、帰還した彼らの日常にまで浸透しているかのような印象を受けてしまうのだ。

「僕はいまも砂漠にいる」というスウォフの独白を想い起そう。
彼はアメリカの平穏な日常の背後に、あの白く凍り付いた砂漠を二重写しに透視してはいないだろうか。

 


アメリカにいる人々の現実はただひとつだ。
戦場を知らない人々にとってはそこにある平穏な日常生活こそがすべてであって、彼らはその唯一の現実のなかで働き、結婚し、子を作り、そして老いていく。


しかしジャーヘッドたちはそうではない。戦場という別の現実を知っているからだ。
砂漠でのあの倦怠と戦闘、これら強烈な経験を経ることによって、ジャーヘッド達の現実は壊れた。だから彼らは死ぬまで、多かれ少なかれあの白い砂漠に囚われ続け、そのことによって自らのうちに分裂を抱えることになる。
そうしてふたつの現実のあいだで、ある者はなんとか社会復帰を果たすかもしれないし、ある者は酒や薬に溺れるかもしれない。ある者は命を絶つかもしれないし、またある者は戦場へと戻っていくかもしれない。

けれど、その後の生活でどんな生き方選んだとしても、一度あの砂漠に足を踏み入れた者はみなジャーヘッドであり続けるのだ。


戦場に囚われてしまった二人の印象的な登場人物がいる。

一人はスウォフたちの指揮官であるサイクス三等曹長だ。彼は筋金入りの軍人で、恐らくこの映画の前にも幾多の戦場をくぐり抜けてきたことだろうし、これからもそうしていくことだろう。

劇中でサイクスがスウォフに語ったところによると、彼はその気になれば家族と共に平穏な暮らしを送ることができたのだという。それなのにサイクスは戦場に残り続けることを選んだ。

彼が開戦後、暗闇で燃える油田を前にして語る言葉は印象的だ。
「なぜなら、俺はこの仕事を愛しているからだ」
「こんな景色が他にどこで見られる?」

このセリフは、あの白い砂漠のさらに奥にあった真っ暗な異界のなかで語られる。そこはほとんど「地獄」と形容しても遜色のないような場所だが、この場面の映像は幻想的ですらある妖しさを湛えており、その映像美はサイクスの言葉に確かな説得力を与えている。

蠱惑的な美を湛えた戦場──それこそがサイクスが囚われた世界の風景なのだろう。

彼の言葉を聞いたスウォフの心中ははっきりしない。
戦場に惹かれるサイクスの"狂気"を目にして「引いて」いるようにも見えるし、その心情をどこか理解しているようにも見える。
これは思い付きだが、もし最後の場面での狙撃が空軍に邪魔されなかったら、スウォフもまた戦場に残り続けたのではないかと、なんとなくそういう想像も働く。


もう一人はスウォフの相棒であったトロイだ。
彼は軍に残り続けることを望んでいたが、犯罪歴を隠して入隊していたことが発覚し除隊されることになる。映画終盤での彼の姿は、サイクスとは対照的な形でジャーヘッド達の囚われた苛酷な運命を象徴的に示している。

トロイは映画の終わりで、帰国後に死亡(恐らく自殺)したことが明かされる。
帰国してから結構な月日が経っているのだろう、スウォフとファーガスは髪を伸ばしている。それに対し、トロイの髪型は海兵隊にいた頃のままであり、このことは何よりも雄弁に、彼が除隊後もジャーヘッドであり続けたこと/あり続けるしかなかったことを物語る。

除隊後も遂に海兵隊員であることから逃れられず棺に収まる彼の姿、それは他の帰還兵たちの囚われた状況を象徴しているかのようだ。除隊しようが髪を伸ばそうが、彼らはみなジャーヘッドであり続ける。

これは帰還兵の社会復帰という、アメリカで実際に起きている社会問題のことでもあるし、ある種の強烈な記憶を抱え込んだ人間がその後の生活とのあいだに断絶を抱えるという、そういう文学的な問題でもあるだろう。

 

帰還した兵士にとってはもしかしたら、戦場で過ごした時期が人生で最も輝かしい時代になってしまったかも分からない。海兵隊にいた頃はみな愛すべきタフガイであったジャーヘッドたちが、帰国後みなどこか冴えないように見える、このことは示唆的だ。

軍という組織の歯車として心身を画一化され、着る服も髪型も強制され、自由を制限され、娯楽を奪われ、何もない砂漠に送り込まれ命の危険に晒される、そういう状況にいた頃の彼らの方がどこか輝いて見える。
そんな「人間疎外」的な状況から解放され自由を手にした帰還後の方が彼らにとっては苛酷であるかも分からない。

これはなんというか「皮肉」なことだ。けれども僕は、だからこれが不幸なのだとか、間違っているだとか、そういう話がしたいのではない。
彼らは人生の貴重な時間を戦争に奪われ、永遠に癒えない傷を付けられ、そうして得られた報酬よりはるかに多くのものを失ったのだろうか?
確かにそれは一面の真実ではあるだろう。

しかしそのことを殊更に取り上げて戦争の不条理を告発することは、この映画に関してはどこかピントがずれているような気がするのだ。

 

若者たちはそれぞれの事情によってたまたま軍に入り、軍に在籍している期間にたまたま戦争が起きて戦地へ送られた。そうしてそれまでの生活から切り離され、砂漠で無為に過ごし、いざ開戦となっても誰一人撃たず、撃たれず、そして帰ってきた。

この映画はただそれだけの映画であって、世界にはそういう奇妙な青春もあるのだという端的な事実の存在に、僕は思い至るだけだ。
そう、そこにはただ生活があり、一時的に社会から切り離されたモラトリアムがあった。
従軍という、ある意味究極の社会的使命を果たしていた期間を「モラトリアム」と表現するのは自分で書いていてかなり奇妙なことだと自覚しているが、それでも僕にはこれより適切な表現が思い付かない。

 

そう、彼らジャーヘッドたちにとって兵役期間は「ある夏の冒険」だった。
死体を探しに行った悪ガキたちの冒険がそうであったように。
そこにはくだらないバカ騒ぎがあり、過去からも未来からも切り離されて浪費される時の流れがあり、ありふれた友情と憎悪、諍いと和解があり、子供じみた野望と憧れ、そして挫折があった。

僕はそのことについて何らかの価値判断を下したり、そこから何かを引き出して教訓にしたりする気がないし、そのような言葉も持たない。

 

だからこう言おう。

 

ジャーヘッドたちは"ただそのようにあった"。
それだけのことなのだと。


彼らはしょうもない戦争に加担して遠い異国の地に死と破壊を撒き散らした。
それは確かに一面の真実だ。
あるいは彼らは大人たちが引き起こした戦争の被害者である。
それもまた一面の真実だろう。

あるはまたこうも思う。仮に劇中の登場人物と知り合う機会があったとしても、僕は彼らとは友達になれないだろう。
なんといっても彼らは究極の男社会に適応したマチズモの結晶であって、軍にとって一番低コストな手駒であって、四六時中バカ騒ぎをして下品なジョークを飛ばし合っているろくでなしの"ジャーヘッド"どもなのだから。

しかし、彼らがあの砂漠にいたことがいかなる形で間違っていようが、彼らがどんなにしょうもないクソ野郎の集まりであろうが、
それでもなぜか、あの白い砂漠で陽炎のなかおぼろげに浮かぶジャーヘッドたち、その姿を僕はどこか愛しく思うのだ。

書くという行為について/『Self-Reference ENGINE』円城塔

たとえば、ある人が文章を書こうと原稿用紙やエディタに向かうとき、その前には何もない余白が広がっている。

原則的に、そこに何を書こうがそれはその人の自由だ。「なんでもあり」である。
しかし、一度でも文章を書いた事がある人ならすぐに納得できることだろうけれど、なんでもありならすごく簡単じゃないか、という事にはならない。

さて書こう、とフリーハンドで白紙に向かった僕らがまず直面するのは往々にして沈黙だ。「なんでも書くことができる」と「なにも書くことができない」との距離は実はとても近い。それらは同じコインの裏表ですらある。

あなたは目の前に広がる真っ白な余白に任意の文字列を書き連ねることができる。どのような内容を、どのような語り口で、どのくらいの長さで書くか、その制御はすべて書き手であるあなたに委ねられている。
だが、そうして全能の神のごとき力を与えられたところで、一体何を書けば良いというのだろう?よしんば何かを書けたとしても、なぜそのようなテクストでなければならないのかを、あなたは自分自身に説明できるだろうか?
あなたが出力したその任意の文字列はいかなる客観的な必然性も具えていない。
そのことは書き手であるあなた自身が誰よりも深く理解しているはずだ……。


かくして、僕らは何も書かれていない空白を前に沈黙することになる。

抱いていた野望は萎え、輝いていたアイデアは色褪せ、風の歌は止み、その両手はもう一文字だって書けはしない。
耳元でささやいていたミューズも今はどこかへ行ってしまい、あなたは徒労感のなかに置き去りにされる。

こんなのは時間のムダだ。
自分はどうせ何も書けやしないんだ。
もういい、忘れよう……。

このような僕らの沈黙、それは突き詰めて言えば、有限の知しか具えていないヒトという存在が「書く」という行為において無限の生成力を手にしたために起こるものだ。それは有限の存在である僕らが無限を前にして立ち竦む、その目眩なのだ。

なるほど確かに、聖書にあるヤハウェのような存在であれば言い澱みすらしないことだろう。そして最初の言葉とともにきっちり6日ですべてを創り、その後にはなにも付け足す必要はないことだろう。
なんといっても彼は全知全能なのだから。

ところで「書く」という行為において、僕らはヤハウェと同じように全能だ。
可能な文字列の組み合わせは無限にあって、僕らは原理的に"なんでも"書くことができる。しかしながらその創造のプロセスにおいて、ヤハウェにはあって僕らには欠けているものがある。
それは全知だ。
言うまでもなく、ヒトの具えうる知は有限だからだ。

 

無限の前に立たされた有限の存在。
そう、問題はここにある。
『Self-Reference ENGINE』でたびたび繰り返される比喩を借りるなら、"有限の数を無限で割れば答えはゼロ"なのだから。

 

無限の知をもって無限の力を行使する、これは理に適ったことだ。
しかし有限の知をもって無限の力を行使すること、これは全然理に適っていない。端的に言ってそれは不可能なことだ。

であれば、僕らに取り得る選択肢はただひとつ。
絶望して途方に暮れ、沈黙し続けることだけだ。

 

それなのにどういうわけか、この「なんでもあり」の茫洋とした白紙に人は言葉を書き始める。
神が発した最初の言葉が暗闇に世界に光をもたらすあの『創世記』の一節のように、白紙に最初の一滴のインクが垂らされ、最初の言葉が躍り、そして余白はなんの必然性も持たないまま、任意の文字列で埋め尽くされていく。

確かにヒトは文章を書くことができる。
僕だっていまこうして書いているし、あなただって書いたことがあるだろう。多少の教育を受けた人間なら誰だって文章を書くことができる。そんなのは当たり前のことだし特に驚くようなことではない。

しかし本当にそうだろうか。

 

あらゆるテクストは客観的な必然性を具えていない。これは裏を返せば、あるテクストはそれを書いたあるひとりの人間の、「書く」というあるひとつの行為においてしか、書かれることができなかったということでもある。

カフカの『城』は、ボルヘスの『バベルの図書館』は、そしてもちろん円城塔の『Self-Reference ENGINE』は、それを書いた著者本人にしか書くことができなかった。これも当たり前すぎるくらい当たり前のことだけれど、しかしこのことを考えるたびに僕は途方もない巨大なものを目にした時に感じるあの眩暈に襲われる。
その時僕は否応なく意識することになるからだ。
書き手という存在、書くというひとつの行為、そして書かれたテクストの一回性と特異性を。
彼らが実際に存在していて、その言葉が残っているという驚異を。
そしてなにより、それほど尊いテクストがこの世界には数え切れないほど存在するという途方もなさを。

 

これほど多様なテクストが世界に存在する理由、それは書き手である人間が有限の存在であって、書かれたテクストが常に不完全であるからに他ならない。もし完全なテクストが存在するなら、そのテクストは世界の全体を記述しているはずだ。だとすれば人間たちが付け足すべき言葉はもうどこにもなく、よって僕らはなにも書くことができなくなるだろう。
そう、完全なテクストが原理上存在し得ないことによって逆説的に書くことが可能となり、そして書かれたテクストは無限の多様性を獲得する。これは無限で割られた有限の数──すなわちゼロ──のもたらした奇妙な逆説だ。

 

だから、何もないネガティヴ・スペースに人が言葉を紡いでいくとき、そこでは奇跡的な現象が起きていて、それはとても尊いことなのだ。

 

 

ここまで書いて『Self-Reference ENGINE』の具体的な内容にはほとんど触れていないが、この本について語ろうと思って僕が考えたのはそういうことだった。
この本について語るにあたって、僕はこれが相応しいサブテキストだと信じている。

でもせっかくなのでもうちょっと書こう。

 

たとえばこんな文章を書くことが出来る。

「あなたはこのテクストを読んでいない」

こう書いた瞬間そこには、このテクストを読んでいないあなたが存在しているということになる。
もちろん画面の前にいるあなたはこのテクストを読んでいるのだから、あなたはこのテクストを読んでいないのではない。
つまり本当に存在しているのはこのテクストを読んでいるあなたであって、このテクストを読んでいないあなたは存在していない。

もちろんあなたとはあなたという三文字の連なりであって、それはつまりこのテキストを読んでいるあなたのことでは全然ないのだけれど、それなのになぜかあなたはあなたなのであり、つまりあなたはあたなであり、尚且つあなたはあなたではなく、あなたがあなたであろうがあなたでなかろうが、あなたはこのテキストを読んでいる。

 

こんなものは意味の通らない間違ったテクストだと、そう片づけてしまうのは簡単だ。
しかしながら僕が思うのは、言葉とは本来こういう矛盾した記述が簡単にできてしまう、そういう道具なのではないかということだ。

なるほど確かに、僕らはあるテクストの意味が通るか通らないかを判断することができる。けれど、それは"意味伝達における有用性"という極めて即物的で社会的な基準においてテクストを峻別しているにすぎない。

「あなたはこのテクストを読んでいない」というような記述は間違っている、と僕らが言う時、それはつまり「このテクストはコミュニケーションツールとして役に立たない」という事を言っているに過ぎない。

 

『Self-Reference ENGINE』にはこの手の混乱した記述が山ほど出てくる。
たとえばある日、巨大知性体は滅亡するのだが、それは存在しないというかたちで存在し続けることだったりする。

なぜかといえば、それは突き詰めて言えば、本書の作中世界が「記述すなわち世界」とでも言えるような様相を呈しているからだ。巨大知性体が宇宙そのものと一体化してしまった本書の作中世界においては、書かれたこと(作中では演算と表現されているが、これは実質的には物語を書くことと同義だと思う)がそのまま現実となる。まさに小説がそうであるように。

であれば当然、先に書いた「あなたはこのテクストを読んでいない」というような混乱した記述ですら可能な世界のあり方として織り込まれていなければならない。

だから本書の世界は混沌としている。
ある日突然床下から28体のフロイト(あのジグムント・フロイトのことだ)が出てくる事もあれば、そこら中から家が生えてくる事もある。ある人物は未来方向から飛んできた弾丸に脳天を貫かれるし、あるとき突然アルファ・ケンタウリ星人を名乗るふざけた上位存在が顕現したりもする。

しかしながら注目すべきなのは、本書の混沌とした様相は奇想や狂気によってもたらされたものはないということだ。
いや、もちろんそこには溢れんばかりの奇想とユーモアのセンスが満ちているのだが、それらを根底で支えるのはむしろ言語の論理性に過剰に従うことがもたらした混沌なのだ。

 

言うまでもなく自然言語は論理的で、客観的に説明できる文法や法則、原理的に有限の語彙によって構成されている。しかしながら問題なのは、その論理性は究極的には蝶番が外れているということだ。

自然言語とプログラミング言語との決定的な違いをひとつ挙げるとするならそれは、その言語の運用における明確なエラーを定義できるか否か、というところだろう。
プログラミング言語は明確なルールを具えている。そのため、間違ったことを書いて実行すればエラーを吐いてストップするし、正しい記述と間違った記述の峻別が原則的には可能だ。
だから書き手=プログラマはエラーの発生個所を特定することができるし、コードを正しく書き直してから再度実行すればシステムは正常に動作する。

しかし自然言語はそうではない。それはどんなに滅茶苦茶な書き方をしてもシステムクラッシュを起こしたりはしないし、それどころかエラーメッセージすら出ない。
更に言うなら、自然言語においては記述することと実行することを切り離すことができない。それは書いた傍から、読まれた傍から実行され続ける、いやもっと言えば書くことと実行することが同義であるような、そんな不可思議な代物なのだ。

僕らは普段、この自然言語という厄介な代物に「意味伝達」という合目的性の枷を嵌めている。何かしらの意味を伝達するための中立的なコミュニケーションツールとして僕らが言語を活用できるのはこの枷があるからだ。そう、合目的性という基準があって初めて、僕らは言語の内容と形式──つまり書かれるべき内容とそれを記述した言葉──を分離できるし、「あなたはこのテクストを読んでいない」といったような混乱した記述は事実に反するのだ、という判断を下すことができる。

しかしこの枷はあくまで、自然言語を意味伝達のための道具として活用することを求める僕らの社会的、合理的な生が要求した恣意的なルールに過ぎない。だから僕らはいつでもこのルールを取り払って言語を扱うことができるし、本書が書かれるにあたってもその枷は外されていたことだろう。

 

そこでは「あなたはこのテクストを読んでいない」などという馬鹿げた記述を平気で行ってしまうような、「言語」の持つ底知れぬ不気味さのようなものが立ち現れていたはずだ。

だから、本書が混沌としているのだとしたらそれは言語が必然的に孕む混沌に愚直に向き合ったが故の混沌なのだと思う。そこには言語そのものとの格闘が跡付けられているのだ。だから僕らもまた本書を読むことで、普段透明なツールとして意識すらしていない「言語という何ものか」に触れることになるのだ。


ボルヘスが言うには、言葉はその起源においては魔術的な力を秘めていたという。

したがって言語のなかでは、(言うまでもないことですが)単語はもともと魔術的なものとして始まった。light「光」という単語が光り輝くように感じられ、dark「暗い」という単語が暗いものだったときがきっとあったのです。nightの場合、最初は夜そのものを、その闇黒を、その脅威を、輝く星たちを表わしたと考えてよいでしょう。

(岩波文庫 『詩という仕事について』 p116 )

原初の言葉は事物そのものであって、シニフィアンとシニフィエは一体だった。しかし時が経つにつれ、起源における言葉の魔術性は失われ、シニフィアンとシニフィエ──つまり形式と内容──は分離し、言葉は実在する事物を指し示すだけの抽象的な記号となった。

そしてボルヘスによれば詩とは、その言葉の原初の魔術性──つまり形式と内容の一致──を復活させる営みなのだという。

 

この定義に従うなら、本書『Self-Reference ENGINE』はまさに詩と呼ばれるに相応しい書物だ。

本書において言葉は、透明で中立的な、物語という内容を伝達するための空虚なメディアではない。むしろここでは、言葉そのものが、読むという行為そのものが、そして書くという行為そのものが、それ自体独特のテクスチャや手触りをもった不透明な「なにものか」として、魔術的な現象として、ひとつの驚異として、僕らの前に立ち現れているのだから。

 
最後に、特に気になった各編について適当に。


09 Freud
古民家の床下から大量のフロイトが出てくるというからそれだけで笑ってしまう。
それに直面した人々の途方に暮れたようなとぼけたやりとりもユーモラスで、奇想天外なアイデアの奔出する本書のなかでもとりわけぶっ飛んだ一編。

出落ちのナンセンスジョークと見ても良いけれど、ここで床下から出てくるのが精神分析の創始者フロイトである、という点には大いに意味があるだろう。それどころか、この一編は本書においてほとんど必然的に要請されたものですらあるかもしれない。

ものすごく乱暴にまとめるなら、精神分析とは僕らの心のあらゆる機微を幼少期の父母との関係において解釈する体系である。
そういう巨大な解釈の体系をこうして茶化してみせることによって、本書に対してなされるあらゆる解釈の試みにあらかじめ待ったをかける、これはそんな一編なのだと思う。

何をどう言ってみたって、あんたはあんたの文脈を僕にあずけて、あんたの好きにしてしまうんだろう。
僕は決して、そんな大人になんてなるつもりがない。
だからやっぱり、これはフロイト的悪夢ということになってしまうのかも知れなくて、そんな気色の悪いものは、この出来損ないの夢の中だけの話としておいて欲しい。

17 Infinity
個人的に一番気に入っている一編。
なにやらニーチェの永遠回帰すら思い起させるようなリタの独白は力強く軽やかで、何度読んでも涙腺が緩む。

不可能であることを承知のうえでなお前へ進もうとする、そういった肯定的な生の力に対する信頼と称揚がここにはある。これはこの一編に限った話ではない、本書の全体に通底するある種健康的な「前向きさ」や「明るさ」であり、力強い肯定性の原理なのだ。

自分が本書に強く惹かれる理由も、結局はこういうところにあるのだと思う。