書くという行為について/『Self-Reference ENGINE』円城塔

たとえば、ある人が文章を書こうと原稿用紙やエディタに向かうとき、その前には何もない余白が広がっている。

原則的に、そこに何を書こうがそれはその人の自由だ。「なんでもあり」である。
しかし、一度でも文章を書いた事がある人ならすぐに納得できることだろうけれど、なんでもありならすごく簡単じゃないか、という事にはならない。

さて書こう、とフリーハンドで白紙に向かった僕らがまず直面するのは往々にして沈黙だ。「なんでも書くことができる」と「なにも書くことができない」との距離は実はとても近い。それらは同じコインの裏表ですらある。

あなたは目の前に広がる真っ白な余白に任意の文字列を書き連ねることができる。どのような内容を、どのような語り口で、どのくらいの長さで書くか、その制御はすべて書き手であるあなたに委ねられている。
だが、そうして全能の神のごとき力を与えられたところで、一体何を書けば良いというのだろう?よしんば何かを書けたとしても、なぜそのようなテクストでなければならないのかを、あなたは自分自身に説明できるだろうか?
あなたが出力したその任意の文字列はいかなる客観的な必然性も具えていない。
そのことは書き手であるあなた自身が誰よりも深く理解しているはずだ……。


かくして、僕らは何も書かれていない空白を前に沈黙することになる。

抱いていた野望は萎え、輝いていたアイデアは色褪せ、風の歌は止み、その両手はもう一文字だって書けはしない。
耳元でささやいていたミューズも今はどこかへ行ってしまい、あなたは徒労感のなかに置き去りにされる。

こんなのは時間のムダだ。
自分はどうせ何も書けやしないんだ。
もういい、忘れよう……。

このような僕らの沈黙、それは突き詰めて言えば、有限の知しか具えていないヒトという存在が「書く」という行為において無限の生成力を手にしたために起こるものだ。それは有限の存在である僕らが無限を前にして立ち竦む、その目眩なのだ。

なるほど確かに、聖書にあるヤハウェのような存在であれば言い澱みすらしないことだろう。そして最初の言葉とともにきっちり6日ですべてを創り、その後にはなにも付け足す必要はないことだろう。
なんといっても彼は全知全能なのだから。

ところで「書く」という行為において、僕らはヤハウェと同じように全能だ。
可能な文字列の組み合わせは無限にあって、僕らは原理的に"なんでも"書くことができる。しかしながらその創造のプロセスにおいて、ヤハウェにはあって僕らには欠けているものがある。
それは全知だ。
言うまでもなく、ヒトの具えうる知は有限だからだ。

 

無限の前に立たされた有限の存在。
そう、問題はここにある。
『Self-Reference ENGINE』でたびたび繰り返される比喩を借りるなら、"有限の数を無限で割れば答えはゼロ"なのだから。

 

無限の知をもって無限の力を行使する、これは理に適ったことだ。
しかし有限の知をもって無限の力を行使すること、これは全然理に適っていない。端的に言ってそれは不可能なことだ。

であれば、僕らに取り得る選択肢はただひとつ。
絶望して途方に暮れ、沈黙し続けることだけだ。

 

それなのにどういうわけか、この「なんでもあり」の茫洋とした白紙に人は言葉を書き始める。
神が発した最初の言葉が暗闇に世界に光をもたらすあの『創世記』の一節のように、白紙に最初の一滴のインクが垂らされ、最初の言葉が躍り、そして余白はなんの必然性も持たないまま、任意の文字列で埋め尽くされていく。

確かにヒトは文章を書くことができる。
僕だっていまこうして書いているし、あなただって書いたことがあるだろう。多少の教育を受けた人間なら誰だって文章を書くことができる。そんなのは当たり前のことだし特に驚くようなことではない。

しかし本当にそうだろうか。

 

あらゆるテクストは客観的な必然性を具えていない。これは裏を返せば、あるテクストはそれを書いたあるひとりの人間の、「書く」というあるひとつの行為においてしか、書かれることができなかったということでもある。

カフカの『城』は、ボルヘスの『バベルの図書館』は、そしてもちろん円城塔の『Self-Reference ENGINE』は、それを書いた著者本人にしか書くことができなかった。これも当たり前すぎるくらい当たり前のことだけれど、しかしこのことを考えるたびに僕は途方もない巨大なものを目にした時に感じるあの眩暈に襲われる。
その時僕は否応なく意識することになるからだ。
書き手という存在、書くというひとつの行為、そして書かれたテクストの一回性と特異性を。
彼らが実際に存在していて、その言葉が残っているという驚異を。
そしてなにより、それほど尊いテクストがこの世界には数え切れないほど存在するという途方もなさを。

 

これほど多様なテクストが世界に存在する理由、それは書き手である人間が有限の存在であって、書かれたテクストが常に不完全であるからに他ならない。もし完全なテクストが存在するなら、そのテクストは世界の全体を記述しているはずだ。だとすれば人間たちが付け足すべき言葉はもうどこにもなく、よって僕らはなにも書くことができなくなるだろう。
そう、完全なテクストが原理上存在し得ないことによって逆説的に書くことが可能となり、そして書かれたテクストは無限の多様性を獲得する。これは無限で割られた有限の数──すなわちゼロ──のもたらした奇妙な逆説だ。

 

だから、何もないネガティヴ・スペースに人が言葉を紡いでいくとき、そこでは奇跡的な現象が起きていて、それはとても尊いことなのだ。

 

 

ここまで書いて『Self-Reference ENGINE』の具体的な内容にはほとんど触れていないが、この本について語ろうと思って僕が考えたのはそういうことだった。
この本について語るにあたって、僕はこれが相応しいサブテキストだと信じている。

でもせっかくなのでもうちょっと書こう。

 

たとえばこんな文章を書くことが出来る。

「あなたはこのテクストを読んでいない」

こう書いた瞬間そこには、このテクストを読んでいないあなたが存在しているということになる。
もちろん画面の前にいるあなたはこのテクストを読んでいるのだから、あなたはこのテクストを読んでいないのではない。
つまり本当に存在しているのはこのテクストを読んでいるあなたであって、このテクストを読んでいないあなたは存在していない。

もちろんあなたとはあなたという三文字の連なりであって、それはつまりこのテキストを読んでいるあなたのことでは全然ないのだけれど、それなのになぜかあなたはあなたなのであり、つまりあなたはあたなであり、尚且つあなたはあなたではなく、あなたがあなたであろうがあなたでなかろうが、あなたはこのテキストを読んでいる。

 

こんなものは意味の通らない間違ったテクストだと、そう片づけてしまうのは簡単だ。
しかしながら僕が思うのは、言葉とは本来こういう矛盾した記述が簡単にできてしまう、そういう道具なのではないかということだ。

なるほど確かに、僕らはあるテクストの意味が通るか通らないかを判断することができる。けれど、それは"意味伝達における有用性"という極めて即物的で社会的な基準においてテクストを峻別しているにすぎない。

「あなたはこのテクストを読んでいない」というような記述は間違っている、と僕らが言う時、それはつまり「このテクストはコミュニケーションツールとして役に立たない」という事を言っているに過ぎない。

 

『Self-Reference ENGINE』にはこの手の混乱した記述が山ほど出てくる。
たとえばある日、巨大知性体は滅亡するのだが、それは存在しないというかたちで存在し続けることだったりする。

なぜかといえば、それは突き詰めて言えば、本書の作中世界が「記述すなわち世界」とでも言えるような様相を呈しているからだ。巨大知性体が宇宙そのものと一体化してしまった本書の作中世界においては、書かれたこと(作中では演算と表現されているが、これは実質的には物語を書くことと同義だと思う)がそのまま現実となる。まさに小説がそうであるように。

であれば当然、先に書いた「あなたはこのテクストを読んでいない」というような混乱した記述ですら可能な世界のあり方として織り込まれていなければならない。

だから本書の世界は混沌としている。
ある日突然床下から28体のフロイト(あのジグムント・フロイトのことだ)が出てくる事もあれば、そこら中から家が生えてくる事もある。ある人物は未来方向から飛んできた弾丸に脳天を貫かれるし、あるとき突然アルファ・ケンタウリ星人を名乗るふざけた上位存在が顕現したりもする。

しかしながら注目すべきなのは、本書の混沌とした様相は奇想や狂気によってもたらされたものはないということだ。
いや、もちろんそこには溢れんばかりの奇想とユーモアのセンスが満ちているのだが、それらを根底で支えるのはむしろ言語の論理性に過剰に従うことがもたらした混沌なのだ。

 

言うまでもなく自然言語は論理的で、客観的に説明できる文法や法則、原理的に有限の語彙によって構成されている。しかしながら問題なのは、その論理性は究極的には蝶番が外れているということだ。

自然言語とプログラミング言語との決定的な違いをひとつ挙げるとするならそれは、その言語の運用における明確なエラーを定義できるか否か、というところだろう。
プログラミング言語は明確なルールを具えている。そのため、間違ったことを書いて実行すればエラーを吐いてストップするし、正しい記述と間違った記述の峻別が原則的には可能だ。
だから書き手=プログラマはエラーの発生個所を特定することができるし、コードを正しく書き直してから再度実行すればシステムは正常に動作する。

しかし自然言語はそうではない。それはどんなに滅茶苦茶な書き方をしてもシステムクラッシュを起こしたりはしないし、それどころかエラーメッセージすら出ない。
更に言うなら、自然言語においては記述することと実行することを切り離すことができない。それは書いた傍から、読まれた傍から実行され続ける、いやもっと言えば書くことと実行することが同義であるような、そんな不可思議な代物なのだ。

僕らは普段、この自然言語という厄介な代物に「意味伝達」という合目的性の枷を嵌めている。何かしらの意味を伝達するための中立的なコミュニケーションツールとして僕らが言語を活用できるのはこの枷があるからだ。そう、合目的性という基準があって初めて、僕らは言語の内容と形式──つまり書かれるべき内容とそれを記述した言葉──を分離できるし、「あなたはこのテクストを読んでいない」といったような混乱した記述は事実に反するのだ、という判断を下すことができる。

しかしこの枷はあくまで、自然言語を意味伝達のための道具として活用することを求める僕らの社会的、合理的な生が要求した恣意的なルールに過ぎない。だから僕らはいつでもこのルールを取り払って言語を扱うことができるし、本書が書かれるにあたってもその枷は外されていたことだろう。

 

そこでは「あなたはこのテクストを読んでいない」などという馬鹿げた記述を平気で行ってしまうような、「言語」の持つ底知れぬ不気味さのようなものが立ち現れていたはずだ。

だから、本書が混沌としているのだとしたらそれは言語が必然的に孕む混沌に愚直に向き合ったが故の混沌なのだと思う。そこには言語そのものとの格闘が跡付けられているのだ。だから僕らもまた本書を読むことで、普段透明なツールとして意識すらしていない「言語という何ものか」に触れることになるのだ。


ボルヘスが言うには、言葉はその起源においては魔術的な力を秘めていたという。

したがって言語のなかでは、(言うまでもないことですが)単語はもともと魔術的なものとして始まった。light「光」という単語が光り輝くように感じられ、dark「暗い」という単語が暗いものだったときがきっとあったのです。nightの場合、最初は夜そのものを、その闇黒を、その脅威を、輝く星たちを表わしたと考えてよいでしょう。

(岩波文庫 『詩という仕事について』 p116 )

原初の言葉は事物そのものであって、シニフィアンとシニフィエは一体だった。しかし時が経つにつれ、起源における言葉の魔術性は失われ、シニフィアンとシニフィエ──つまり形式と内容──は分離し、言葉は実在する事物を指し示すだけの抽象的な記号となった。

そしてボルヘスによれば詩とは、その言葉の原初の魔術性──つまり形式と内容の一致──を復活させる営みなのだという。

 

この定義に従うなら、本書『Self-Reference ENGINE』はまさに詩と呼ばれるに相応しい書物だ。

本書において言葉は、透明で中立的な、物語という内容を伝達するための空虚なメディアではない。むしろここでは、言葉そのものが、読むという行為そのものが、そして書くという行為そのものが、それ自体独特のテクスチャや手触りをもった不透明な「なにものか」として、魔術的な現象として、ひとつの驚異として、僕らの前に立ち現れているのだから。

 
最後に、特に気になった各編について適当に。


09 Freud
古民家の床下から大量のフロイトが出てくるというからそれだけで笑ってしまう。
それに直面した人々の途方に暮れたようなとぼけたやりとりもユーモラスで、奇想天外なアイデアの奔出する本書のなかでもとりわけぶっ飛んだ一編。

出落ちのナンセンスジョークと見ても良いけれど、ここで床下から出てくるのが精神分析の創始者フロイトである、という点には大いに意味があるだろう。それどころか、この一編は本書においてほとんど必然的に要請されたものですらあるかもしれない。

ものすごく乱暴にまとめるなら、精神分析とは僕らの心のあらゆる機微を幼少期の父母との関係において解釈する体系である。
そういう巨大な解釈の体系をこうして茶化してみせることによって、本書に対してなされるあらゆる解釈の試みにあらかじめ待ったをかける、これはそんな一編なのだと思う。

何をどう言ってみたって、あんたはあんたの文脈を僕にあずけて、あんたの好きにしてしまうんだろう。
僕は決して、そんな大人になんてなるつもりがない。
だからやっぱり、これはフロイト的悪夢ということになってしまうのかも知れなくて、そんな気色の悪いものは、この出来損ないの夢の中だけの話としておいて欲しい。

17 Infinity
個人的に一番気に入っている一編。
なにやらニーチェの永遠回帰すら思い起させるようなリタの独白は力強く軽やかで、何度読んでも涙腺が緩む。

不可能であることを承知のうえでなお前へ進もうとする、そういった肯定的な生の力に対する信頼と称揚がここにはある。これはこの一編に限った話ではない、本書の全体に通底するある種健康的な「前向きさ」や「明るさ」であり、力強い肯定性の原理なのだ。

自分が本書に強く惹かれる理由も、結局はこういうところにあるのだと思う。